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![]() 私は1960年農業機械販売店を経営する辰巳家の長男として、この世に生を受けました。田畑もかなりあり、兼業で農業も営んでおりました。小さいときから農業機械の整備工場の中や、田んぼで遊んで育ちました。就学年齢に達すると 地元の母里小学校、母里中学校へすすみました。
中学を卒業するまでは、長男の常として漠然と家業を継ぐつもりでいましたが、ある事件から私の道が変わりました。それは、高校生だった私が、歯科医院に通っていた時に起りました。私が待合室で待っていりますと お年寄りの患者さんが玄関を入ってこられました。その方と受付の方との話を聞いていますと、どうも義歯が壊れて修理だか作り直しだか 希望されていたようなのです。固唾を飲んで見守っていますと、理由はわかりませんが受付の方が断ってしまったのです。なす術もなく、その患者さんはとぼとぼ帰っていかれました。自分は学生で何ができる訳でもないのですが、その後ろ姿が妙に目に焼き付いて、医療人としての志に小さな灯がともった瞬間となりました。 幼少期 幼稚園児の時はクラスのボス的存在でした。毎日けんかばっかりやって弱いものいじめばっかりやっていました。参観日の個人面談はいつも最後です。なぜかというと、先生があまりにも話す事(おもに苦情)が多くて時間が必要なためです。両親はかなり肩身の狭い思いをしたことでしょう。 勉強の方はといいますと、これまたぱっとしたところがありません。小学校に入る時に、私は10まで数える事ができませんでした。幼稚園の先生は両親をよんで、小学校に進学しても勉強についていく事が難しいと言われたのです。驚いたのは父親です。その日の内に姫路まで教育器機を買いにいってくれたのを覚えています。しかし本人は、父親の気持ちとは裏腹にまったく危機感を感じず小学校に入学し、毎日学校から帰ってくると 友達と夕ぐれまで田んぼあるいは山をかけずり回って遊んでいました。当然宿題なんかやる訳がありません。朝も寝坊ばかりで、みかねた母親が宿題を私の代わりにやっていました。今考えるとなんて甘い両親だったのでしょう。 小学校3年生の時に女の子の転校生がクラスに入ってきました。彼女は成績も優秀だったので、彼女に気に入られるために勉強を始めました。いささか動機は不純ですが、不思議なもので何となく勉強も定着し、学級委員をやるまでになりました。 中学高校時代 中学校では野球部に所属し、勉学と共にがんばりました。野球部はたいへん厳しいクラブで 毎日先輩に怒鳴られ体罰を受けていましたが、3年間まけずにがんばり 受験のときには志望高校に入学する事ができました。 高校は家から15キロぐらいあり、毎日 自転車で雨の日も風の日も通いました。 あまりにも遠いのと腎臓をわずらってしまったので、運動クラブにははいりませんでした。その分、勉強に専念しようと思っていたのですが、高校の勉強は中学とは違います。勉強の方法がまずかったのか成績は下がる一方でした。 1年生の時は医学部をめざしていましたが、3年生の時には合格する確率がほとんど0に近かったので進路変更を余儀なくされました。そして松本歯科大学を受験する事になったのですが、幸運にも合格できました。 大学時代 今まで家から出た事のない私は1ヶ月ぐらいホームシックにかかりましが、すぐにたくさんの友達ができ、のびのびと楽しい大学生活をおくるようになりました。 高校時代の反省から、かなり要領よくなってきました。運動クラブ、それも日本拳法部に入部し、放課後は毎日きびしい練習スケジュールだったので、授業中にすべての事をマスターするように 一番前の席を陣取って先生の講義に集中しました。 換算しますと、当時 授業料が1時間あたり1万円でした。すごい金額です。授業を休んだり寝ていたりする事など コスト意識の高い私には絶対できないことでした。それが功を奏したのか、試験勉強はほとんどすることなく どの教科もパスできる事ができました。 長野は冬がたいへんきびしく降雪量も尋常ではありません。当時ほとんどの学生は車で大学に通っていましたが、私は自転車しかなかったため 雪の日の登校は歩いて寮から通わなければなりませんでした。 2キロぐらいの雪道を1時間ぐらいかけて歩いて必死の思いで学校にたどり着くと そんなときに限って休講です。仕方なく2時限まで待つ事もしばしばありました。当時は携帯電話もなかったので、大学にいってみないと授業もあるかどうかわからないという状況でした。のんびりした時代です。しかし大学では高校と違って 年齢層 性格 家庭環境もさまざまな学生が集まっていました。思い返すと私の人生の中で大きく成長できた6年間でした。 そして6年生になりました。卒後進路をきめる段階になり 東京に出て修行をしようとおもったのですが、両親のすすめで姫路に就職することになりました。社会人の一歩を踏み出したのです。 勤務医時代 稲美町の実家から姫路までの通勤です。当時朝の7時ぐらいには家を出て、帰りは夜の11時ぐらいになる事もありました。 私は院長先生と2人で昼休みもなしに夜まで140人ぐらいの患者さんを診る毎日でした。今と違って来院患者さんが大変多い時代でした。激務でしたが私としては臨床経験を積むという貴重な日々でした。休日には 全国の有名な先生の講習会を受講したり、勉強会に出席したりして研鑽を積みました。他の歯科医師に尊敬される歯科医師になるため 忙しい日々を送っていました。 ある日父の友人の歯科医師の先生より『辰巳君もそろそろ開業じゃないのかい?』と言われたのですが、そのことをきっかけとして 漠然と考えていた開業が、急に現実味を帯びて自分の中にめばえてきました。高校生のときに抱いた志がやっと形あるものになっていったのです。 昭和62年 春のことでした。私は辰巳歯科医院を開業いたしました。 |
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